解脱寺について

解脱寺の歴史

阿毘縁山解脱寺縁起

阿毘縁山は、雲伯の国境海抜六百米の一大高原のなかにあって、門前の大鳥居をくぐって石段を登 ると、百米余の横馬場があり、これにそって高い石垣は城郭のごとく、十数本の樅の並木は樹齢二百 年、天然記念物に指定されてまことに荘厳である。さらに石段を登り鐘楼門をくぐると、白砂の広庭 に木々の陰がうつり、松の緑をわたる風もすがすがしく、近隣無比の霊域である。

当山に安置してある尊像は、日蓮大聖人の直作で「一木三躰の像」のうち、開運の祖師といわれて いる。(他の二体は、現在徳島の法華寺と、大阪の妙泉寺の本尊となっている)昔鎌倉の松葉ヶ谷の 法華寺より、後村上天皇の命により(一説に日蓮の信者であった将軍足利尊氏の命ともいう)京都の 本国寺に移されたが、尊氏の一門に日野中将という人があって、本国寺日静上人(尊氏は日静上人の 甥)にいうには「私はゆえあって西国におもむくが、当山には、祖師直作の尊像が二体安置されてい る、願わくばその一体をさずけてくだされば、西国へ移したてまつって緒人に法華経の教えをひろめ ん」と、日静上人はよろこんでこれをさずけ、日野中将は伯耆の国阿毘縁のさとにいたって堂を建て、 尊像を安置して供養した。

そのころ合戦各地にあって、日野中将も戦いにでむき、そのすきをうかがって出雲の三沢一族が阿 毘縁をおそった。寺の西南に出たところを三沢陣、東南の丘を日野陣といっているのは、そのときの 対陣のあとと伝えられている。住民は四方に逃げ散り、しばしば荒野となり、祖師のみ堂をつくろう 者もいないまま荒れはてて、長い年月がたっていった。その後尼子の家臣小林右近というもの、み堂 の山に城をつくったと伝えられている。

ようやく世のなかもおだやかになり、わずかに人も集って耕作などしているうち、いつとなしに読 経の声もきこえ、あまりに尊いみ仏の姿におのずからうやまいの手を合わせ、粗末な四本柱のみ堂も つくったが、ただ風雨がしのげるというばかりのものであった。日蓮上人在世のとき、諸宗のそねみ にあって佐渡へ流され、塚原という山野で、屋根もなくて松の風をきき、壁も荒れはてて雪も見馴れ、 ただ鹿の皮を敷き、蓑笠をきて明けくれされたのも、このみ堂のようであったかと思われるばかりの ものであった。

第百十一代後光明天皇の慶安元年十一月二十九日の夜、米子本教寺の住職日要上人の夢に、尊い高 僧のあらわれていうには「われは阿毘縁の日蓮なり、くずれてもまたも仏はくさりあるかな」と、日 要夢のなかに伏しおがんで、「もとのこころの法師するより」といい終って夢よりさめ、不思議に思 って仏前へいってお経をあげているうちに、東の空が明けて門の戸を開くと、門前に一人の男がうず くまっていていうには、 「雲州松江の桔梗屋小左ヱ門より銀子(ぎんす)ひとつつみをもってきま した。このたび阿毘縁の祖師のみ堂を建てられるとのことで、これを寄付いたします」と差出したま ま、ゆくえもしらずたちさった。日要は夢のことと思いあわせて、いよいよ不思議になり、信者の長 尾善右ヱ門にくわしくかたり、とりあえず松江の桔梗屋へ使をおっくて、「ご寄付の銀子はたしかに 受けとりましたが、もっとくわしくご様子をきかせてください」とつたえると、小左ヱ門は驚いて、 「私どもは銀子をおくったおぼえはございません。また阿毘縁とやらに祖師堂を建てるということは 夢にもしりません」と答えたが、これも仏のおつげと思いなおし、使いとともに本教寺へいき、日要 上人・善右ヱ門・小左ヱ門の三人でいろいろと話合った。とにかく阿毘縁というところをたずねてみ ようと、善右ヱ門・小左ヱ門の二人がつれだって山みちをたどって阿毘縁へ詣ってみると、日要の夢 のおつげのとうり、高祖の霊像が四ツ柱のこけむした堂のなかにあった。両人はおぼえず手をあわせ て喜びの涙をながしてお経をとなえた。しかしどのようないわれで、このような山のなかにこの尊像 がおいでになったのだろうと語りあっていると、そこへ神主の筑後と百姓庄八の二人がやってきて、 むかし日野中将のことどもと、尊像の不思議な霊験のかずかずをものがたった。

ときどき読経の声がきこえ、今年も七どきこえてきた。とりわけ十月十二日の夜はこの堂のうえに 灯火(ともしび)があらわれ、夜なかのころにはかに口が自然に鳴り、その夜はお経の声もいちだん と高く聞こえてくる。そのためこの村は流行病・ほうそう・難産など、いろいろなわざわいからのが  れるため、この村の氏仏(うじぼとけ)と尊敬し、この四ツ柱のみ堂を法花坊といっている。(いま 寺の西南、歴代上人の墓地のところ)。筑後と庄八はさらに、ある夜尊像を盗みだしたものがいたが、 ひと晩ぢゅう堂のほとりの田をまわって夜が明けたため、そのばに捨てて去っていった。それからそ の田を七めぐりの田といっている。またあるとき、またもや盗んだものがいて、遠くにげのびたと思 ったが、わずか四キロばかりの笠木村というところで夜が明けたため、水のたまった田のなかに埋め てたち去った。その田はそれから七日のあいだ毎晩光って、数千の螢がむらがっているようであった。

人々があやしんで掘ってみれば、仏像が埋まっていた。阿毘縁の人はいそいで迎えにいきこの堂にま た安置した。このときからこの田を螢田(ほたるだ)とよんでいる。このように二度までとろうとし た盗人が、その後この村にきて、ざんげのためとありのままを物語り、人々に酒などもてなして許し を乞い、一緒に堂に詣ってひとばんぢゅう題目をとなえたこともあった。などとこまごまと物語りし たため、善右ヱ門・小左ヱ門は驚き恐れ、生き身の祖師を拝んだ気がして、米子へ帰って日要上人に 話した。

日要もおどろきよろこび、四方の人々より寄付をつのり、善右ヱ門・小左ヱ門ともに力を合わせて 阿毘縁へみ堂を建て、身延山の貫主日境上人の弟子日感上人をむかえて開山の祖とし、日感上人もま たみ堂の建立に力をそそいだ。善右ヱ門は法名を日解、小左ヱ門は日脱といっていたが、この寺の建 立は、日要上人・日解・日脱の三人のはたらきによるものと、法要山解脱寺と名づけられた。当時の 山号はまた阿毘縁山ともとなえられてきたが、阿毘縁とは梵語で無比(たぐいなし)という意味で、 遠近の人々もこのような不思議なことどもを伝えきき、たぐいなき霊地と詣って尊像を礼拝(らいは い)すると、「立ち渡る身の浮き雲も晴れ」ていき、所願成就・開運のめぐみを受けるありがたき霊 山と、教えはさらにひろまっていった。

慶安元年(一六四八)池田光仲公鳥取藩主として入国、光仲の奥方は紀州の開祖徳川頼宣の娘茶々 姫、姫の祖母、すなわち頼宣の母である養珠院お万の方(徳川家康の側室)は、日蓮の熱烈な信者で あり、承応元年五月五日(一六五二)解脱寺日応上人にたのみの文と葵の金紋のついたけさ・かたび らを贈って光仲一門の安泰を祈った。享保七年三月(一七二二)には藩中へ出開扉をし三代の藩主吉 泰を始め群臣が礼拝した。また明治三年三月には池田家最後の藩主十二代慶徳が、はるばると参拝し て日因上人より開扉を受けている。

十二世日淳上人は一代の傑僧で、常に十数人の学徒を養い、厳格な僧風をつたえ、伯耆、出雲の寺 院では、日淳の門下でなければ僧侶でないといわれるほどであった。日淳上人は解脱寺を山陰最大の 道場にしようと、門前の石垣をきづき、天然記念物になった樅をうえ、さらに十五間四方の祖師堂の 増築を計画し、寺庭の西がわに一大貯木場をつくったが、不幸にして中途で亡くなった。その後五十 年、十六世日因上人明治元年にようやく九間四面の祖師堂を建立した。諸材のほとんどが腐食して、 縮小せざるをえなかったのである。

このようにして華麗な大祖師堂を始め、客殿庫裏・鐘楼門(しょうろうもん)学寮、その他の諸堂 二五〇坪・中国地方まれな霊山を誇ったが、昭和二十六年六月二十八日早朝、学寮の南端の一室に住 んでいた老人の失火により、わずか二時間余りで全焼してしまった。二十一世日運上人をはしめ、村 民の必死のはたらきで、尊像と諸像・位はい等は難をまぬがれたが、鐘楼門・七面堂をのこすのみで、 寺宝古文書ことごとく失ってしまった。

第二十一世日運上人、第二十二世日禧上人復興に儘瘁せしも中葉にて遷化、第二十三世日裕若くし て法燈を嗣ぎ日蓮上人第七百遠忌に再建を発願、昭和五十七年四月二十五日再建。落慶式を厳修円成 する。此れ一重に広く十万篤信の有縁無縁の善男、善女の浄業の賜物で深く感謝するものであります。

合掌

平成五年六月